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展示ケース

御本茶碗 銘 山乃端

口径:13.5㎝ 高さ:9.0㎝

御本は御手本の意で手本の切型を与えて作らせた陶器の総称。

この茶碗は御本茶碗の中でも比較的初期に作られたもので、鹿の子(鹿の膚)自然で土見せとなっている。古来より茶人に好まれた景色のある茶碗で、内側に少し刷毛目が見えるのもうれしい。銘の「山乃端」は山を遠くから見た時の稜線のことを言い、おそらく土見せが山間を連想させ付いたものと思われる。

大きさと端正な姿は申し分なく、季節を問わず使える申し分のない茶碗。

尾形乾山造 絵高麗手茶碗 安田靫彦箱

口径:11.5㎝ 高さ:6.2㎝

乾山は色絵や錆絵のものを多く残しているが、絵高麗写等も得意とした。

特に向付や蓋茶碗などに多く見受けられる。

乾山の茶碗は蓋茶碗を転用したものもあり、小振りなものが多い為、薄茶の茶碗として特に喜ばれる。実際は絵付けをしているため絵高麗のような描き落としではないが、独特の筆致で描き落としのような立体感が感じられる。

日本画家である安田靫彦は美術品の収集・研究もよくし自身の所持していたものを初め、乾山等のやきものにも箱書きをしたものが多く遺されている。この茶碗も靫彦の箱書きとなっている。

 

尾形乾山

江戸中期の陶芸家、画師。京都屈指の呉服商雁金屋尾形家の三男として生まれる。名は深省。権平、惟允とも称した。尾形光琳は彼の次兄である。富裕な商家に育ちながら2人とも商人にはならず、もっぱら文化的な素養を身につけ、自由な生活を楽しんだ。1689年(元禄2)27歳のとき乾山は洛西双ヶ岡に習静堂という一書屋を構えて文人生活に入っている。近くに高名な野々村仁清が活躍する御室焼があり、この窯に遊ぶうちに陶工になる決意を固め、99年に2代仁清より陶法の秘伝を受け、近くの鳴滝泉谷に窯を築いて本格的な製陶生活に入った。この窯が京都の乾の方角にあたるため「乾山」を窯の名につけ、その製品の商標、さらに彼自身も雅号に用いている。乾山は仁清に技術を学びながら、その様式を継承することをせず、兄光琳の創始した琳派とよばれる復興大和絵の画風をみごとに意匠化することに成功し、一家をなすことができた。白化粧地に鉄絵や染付を使って表す装飾画風はまことに雅趣に満ち、瀟洒な作風は個性に輝いており、製品には師のかわりに「乾山」と筆で自署するのも画師と同じ芸術家意識を表している。

1712年(正徳2)に鳴滝から市中の二条丁字尾町に窯を移した時期から、彼の作陶は第2期に入るが、16年(享保1)に絵付に参画した光琳が死亡したころは、陶業は不振をきたしたといえる。しかし彼の遺品をみると、得意とする白化粧地鉄絵、染付のほか、色絵にも新機軸を生み出し、中国、朝鮮、オランダの陶芸を模倣し、京都では初めて磁器を焼出するなど、彼ほど新技術の進取に取り組んだ陶工も少ない。その意欲的な精神は75歳の37年(元文2)に著した『陶工必用』に横溢している。享保(1716~36)の中ごろに江戸に赴き、晩年はこの地で送り、寛保3年6月2日、81歳で没したが、晩境にあっては絵画に名作を多く残し、「京兆」「平安城」を冠称して「紫翠深省」と自署し、自ら京都文化の保持者であることを誇示した。

名越弥五郎造 水月猿車軸釜/時代唐銅風炉切合 13代大西清右衛門(浄長)極箱

釜  口径:9.5㎝ 高さ:16.5㎝  

風炉 幅:29.0㎝ 高さ:20.0㎝

車軸釜の作は大西浄長が「宝暦年時代弥五郎作」と極めていることから江戸名越家5代弥五郎(昌道)であると考えられます。5代弥五郎は江戸中期の鋳物職棟梁で徳川将軍家御用の名工です。風炉は無作ですが時代の唐銅朝鮮風炉で恐らく江戸前期から中期にかけての作であると思われます。

 

この釜は車軸形で鐶付が猿、また鐶付の猿が伸ばしている手の先に水月(水に浮かぶ月)の地紋があり、いわゆる猿猴捉月の図となっており非常に楽しい逸品となっております。

了々斎竹一重切花入 銘 徒然 共箱

胴径:11.5㎝  高さ:30.8㎝

表千家9世了々斎宗左の竹一重切花入。

 

銘を「徒然」としています。

 

徒然は「徒然草」ですと「物思いにふけりながらその思いを流れのままに」といった意味ですが、「長閑な日々が続く」といった意味もございますので、季節問わず使用できる良い銘だと思います。

 

江戸後期の竹花入ですが、特に目立った痛みもなく状態は良好です。

瀬戸肩衝茶入 銘 浅茅 鵬雲斎箱

口径:3.5㎝ 胴径:6.5㎝ 高さ:8.0㎝

江戸後期頃の瀬戸肩衝茶入。

どっぷりとした釉薬の垂れが良い景色となっている。

裏千家15代御家元鵬雲斎が「浅茅」と銘を付けている。

浅茅は丈が低い茅(ちがや)のことで、荒涼とした秋の風景を想起させる。

仕覆は「狩鞍文錦」と「青海波梅鉢金襴」のふたつが添う。

古い茶入であるため口から胴にかけて補修があるが、共直しである為目立たないかと思われる。

胆礬呉須龍文兜鉢

径:22.0㎝ 高さ:6.7㎝

素地である白磁のアガリが非常に美しい呉須赤絵の兜鉢で、中央の龍文を胆礬(タンパン)と呼ばれる銅から作られる青い釉薬で描いた上手の物です。

明末頃の鉢ですが、通常経年と共に剥落してしまう金が残っているのも嬉しい。

胆礬呉須は普通の呉須赤絵の物より渡来している数が少ないので古来より茶人に珍重されてきました。

一部に肉眼ではわからない共直しがあるものの、アガリの良さ・胆礬の美しさ・金が残る状態の良さ三拍子揃った逸品です。

古染付碁打香合

幅:3.1~3.5㎝ 高さ:2.6㎝

染付碁打香合は大小あり、こちらは小の方で形物香合番付では西四段目に位置しています。

碁打香合の特徴として、形は六角で蓋の甲がわずかに盛り上がり、胴側は波紋が一周し、絵は碁を打つ人が山水を前に対座していますが、必ずしも碁打とは限らず、孤独して閑坐する人物を配したものも見られます。

この香合も碁を打っているというよりも、山水を前に閑坐している人物が描かれています。

酒井抱一筆 結柳椿図幅

本紙 幅:30.0㎝ 長さ:126.5㎝

酒井抱一

宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日)

江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている。

尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。

 

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